阪神大震災から22年を迎えるにあたって

ずーっとサボってるんですが、私の阪神大震災サイトを復旧した方がいいなと思ってるんですが、この際、阪神大震災から5年後の御蔵学校を中心に2000年の私のウェブサイト内容を以下に再掲載し、それからのわれわれの17年を振り返ることにしたいと思います。

神戸を歩く(2000年)

*1月15日(土)
 <神戸の朝>
 まち・コミュニケーション主催、第六回御蔵学校に参加するため、半年ぶりに長田区御蔵へ。複数のボランティア団体が入居していたプレハブ(区画整理後の公園用地に暫定的に建っていた)はすでになく、まち・コミが協力した最大の成果である共同化住宅(複数の権利者が集まって一つの集合住宅を建てる)「みくら5」、および「みくら5」内に設けられたまちづくり拠点「みくらコミュニティプラザ(仮称)」ができあがっていた。御蔵学校は、そのこけら落としのイベントでもある。
 向かいにある喫茶店でモーニングセット。神戸に来て驚かされるのは、そこに喫茶店文化があることである。早朝六時から営業しており、一ブロックに一つはある。三百円程度の安い料金で朝食を済ませられる。常連が仕事前に毎日通い、置いてある新聞を読み出す。記事について、客や店の人と会話(コミュニケーション)がなされる。また、日々のくらしや出来事についておしゃべりをする。東京では、早朝からやっている喫茶店など見当たらないし、会話もあまりない。ここには地域に根ざした喫茶店文化がいまだ存続しているのだ。以前に銭湯が果たしていた役割を担い続けていると言えるかもしれない。(神戸には喫茶店文化と並んで、バー文化もあるらしい)

 お店の人が「ボランティアさんか何か?」と聞く。「そんな感じがしたんよねぇ、やっぱり」、「もうここらあたりでも、震災言うても、話題にもあんまりならへんわ〜」。「あ〜、そうですかぁ」。この一帯は炎で燃え尽きたはず。それ以上突っ込んだ話しをこちらから持ちかけることはできなかった。しかし、気になったのは、目の前で活動していたまち・コミのことを店の人がほとんど知らなかったという事実である。コミュニティ形成はこれからはじまるのだろう。

 <御蔵学校はじまる>
 会場となる八十五平米の部屋(コミュニティプラザ)には数十人を超える人びとが集まり、満員状態。しかも聴衆には神戸のNGONPO・まちづくりなどで有名な方が多数おられる。この部屋は、高齢者のミニデイケア学童保育から地域サークルや文化活動、さらにはボランティア育成や被災地情報発信基地まで、あらゆるニーズに応えられるような場として、設定されている。地権者の一人である兵庫商会の田中社長がこの場を提供した。この五年の成果の一つであるこの部屋で行われる御蔵学校は、今までにない密度の濃さをもって開催されたのである。御蔵学校校長でもある田中氏の挨拶で、開校が宣言された。日本画家の東山魁夷の神戸を思う言葉を引きながら、短い挨拶は終わり、最初の講座がはじまる。

 <室崎益輝先生「震災が都市に教えてくれたこと(死者6500人が語るもの)」>
「室崎先生のご紹介」
 室崎氏は、神戸大学都市安全研究センター教授(都市防災が専門)であり、震災犠牲者全員の遺族への聞き語り調査をしている。震災五年特集番組にも出ていたので、ご覧になった方も多いだろう。彼のことについては、現在発売中の雑誌「世界」2月号(岩波書店)で島本氏が詳しく説明している(この説明は非常に重要)ので、紹介はそちらにゆずることにし、講義の中身に入っていきたい。

「教訓をひきだすとは?」
 この度の震災復興がうまくいかない言い訳、三大話しがある。(1)かつてない未曾有のものだった、(2)不況が重なり、復興がままならない、(3)あまりにも大規模な被害だった。この3つから何が引き出せるか。やむを得なかった、ということ以上に何があろう。「それで?」と次を聞こうと思っても、それ以上前にはすすまない。では、現実に被災地で見られる教訓の引き出し方の典型は何であろうか。例えば、「屋根が重いから家がつぶれた」→「瓦が原因だ」→「瓦なしの家を再建」という現象がそれである。だが、それは正すべき原因を正しく捉え、問題解決の道筋を正しく展望してると言えるのだろうか。違うはずだ。

 震災がもたらしたものは、(1)悲しみ、(2)苦しみ、(3)痛み、である。人を亡くした悲しみ、これは持ち続けていくものだ。経済的な苦しさ、これは克服へ努力していくしかない。教訓を引き出すべく検証をする時、三番目の「痛み」が重要になってくる。例えば、「なぜ長田は燃えたのか」という検証をする場合、今まで放置してきた都市に住まうための政策や技術、責任体系というものを全て検証する必要が出てくる。これは自己否定を伴うものであり、心への大きな痛みが伴うものである。しかし、それをせずしては、真の教訓は得られない。

「なぜ、6500人は死ななければならなかったのか」
 六千五百人の内訳は以下の通りである。震災直後の衝撃で生き埋めになるなどして亡くなった一次被害が約五千人、その後の火事や土石流で亡くなった二次被害が約五百人、そして震災関連死とされる三次被害が約千人。合わせて六千四百三十二人。三次の震災関連死という概念は非常に広くて曖昧なものであり、「もっと多い」という議論はありうるが、公式にはおおよそ以上のようになっている。このうちの、一次被害である五千人の原因追求するのが、室崎氏の仕事である。原因追求と責任追求は違う。だが、責任追求なしに真の原因追求はできるのか、という問題がある。これは、先の痛みを伴う自己否定とも関わることであり、難しい。が、実際には本質的な原因追求さえ行われていない。その典型例として、震災後にできた被害対処の四大神話をを以下に挙げる。

 (1)情報システムの整備。情報の伝達が遅かったから被害が増加した、という議論から、GISなどを用い多額の費用をかけて情報システムを構築するのが、今の日本の流行りである。しかし、これは最初の五千人とは関係がない。地震がおきた時点で、亡くなってしまっているのだから、いくら早くても仕方がない。事実上、必要とされる棺桶の数を知るための「棺桶準備」に近い。

 (2)行政の対応。地域防災計画、応急対応マニュアルの作成や見直しである。これも全国的に行われたが、マニュアルの作成が終わったら防災担当の人数が減らされるなど、一時的な運動に終わった所が多い。トルコや台湾で地震がおきても、そこでの教訓を取り入れてさらに見直しをはかろうという動きもみられない。仮にマニュアルが有効だとしても、これは事後の対応であり、やはり五千人の命は救えなかった。マニュアルづくりは、明らかにアメリカの影響である。アメリカには、キリスト教的原罪意識なのか、最初の地震の揺れ自体は仕方がないとあきらめるという意識が根底にある。また、アメリカのまちは燃えないから、すぐに消さなくても大丈夫だという事実がある。ほっておいても一ブロック以上は燃えない。消防車はわざと行かないくらいだ。そういう所と同じに応急対応システムばかりに重点を置いても、日本ではだめなのである。燃えるまちをほっておいた責任こそ問われなければならないし、はしご車の届かない建物自体を問わなければならない。

 (3)自主防災組織とボランティア。これには根本的な疑問がある。防災というのは、人の命に関わることだ。それをボランティアという義務を課すことのできない立場の人へ頼ってしまってはいけない。もたれ合い、責任逃れになってしまう。ボランティアも必要だが、それぞれの責任を明確にしたうえでの協働であるべきだ。

 震災では、三〜四万の人が直後に生き埋めになり五千人が亡くなったが、あとの三万五千人を助けたのは、近隣の人である。いくら外部のボランティアに頼っても、四千五百人は地震から十五〜三十分で死ぬのだから、間に合わない。東京が神戸を語る際に、神戸市は都市経営がまずく、行政もだめで、市民も準備していなかった、という点を挙げて、それに引き換え、東京は意識が高く、バケツリレーや自主防が火を消す、などと自己擁護をはかる物言いがよくある。しかし、台湾で生き埋め一万人のうち五〜六千人助け出したのと比べても、神戸はかなりたくさんの人を近隣の力で助けたのだから、そうした批判は的確ではない。自主防を役割分担として語るだけでは、絵に描いた餅である。

 (4)活断層の調査。日本にはたくさんの活断層があり、一つ調べるのに何億もかかる。危険度を調べたとしても、それをどう情報公開するかという問題がある。

「なぜ、住宅は無残にも倒壊したのか。その政策や技術の誤りはどこからもたらされたのか」
 家が壊れるということ。それが死をもたらしたのだとすれば、対策としては耐震補強が必要となる。しかし、住宅は私有財産のため行政はできない、という論理があるため、個人でするしかない。そうなると、耐震補強なしは罰則、というような制度をつくる必要がでてくる。 耐震補強への行政の補助が全国一すすんでいる横浜でさえ、耐震補強はほとんどすすんでいないのが現状なのだから。

 例えば神戸で、あの地震で残った建物なんだから大丈夫とか、もう百年か千年こないだろうからとか思って耐震補強しないのだとしたら、それは勘違い。地震には多様な種類があるのだから。古い住宅が残った真野こそ耐震補強をしないといけない。

 家が壊れた理由説明は一般に以下のようになされる。(1)古い、(2)瓦屋根、(3)日本の伝統工法。その結果、アメリカ式の2×4の家が次々に建っている。しかし、その説明は違う。このような発想でもって、命の次に大事な文化をわれわれは捨ててしまっている。

 日本の家屋は、新陳代謝のシステムがあり、きちんと手入れをすれば千年ももつようにできている。子どもが結婚したといった理由で三十年から五十年サイクルで家を大きく修理することが可能なつくりになっているし、毎年の大掃除という習慣も根付いていた。そんな手入れをしなかったことが、震災で家が壊れた真の理由の第一番目に挙げられるのだ。また、ここで警鐘を鳴らしておきたいのは、2×4にしたから大丈夫なんてことはない、ということだ。手入れをしなかった五十年後の2×4はシロアリの被害を受けていて、百年後にくる地震で皆またつぶれる。

 どうして、手入れをしなくなったのか。それは高度成長と使い捨て文化によって、家がストックでなくフローとみられるようになったからだ。また、日本の都市計画制度にも根本的な問題がある。消防車が入れて隣にも燃え移らないために四メートル道路に接することを義務づけたが、それを杓子定規に当てはめるため、四メートル道路に接していない古い家は建て替えができず、いつまでも古い家が建っている状況が生み出された。建て替えの方法は、地上げしてマンションを建てるというものしか残されていないのだ。「燃えないため」という原点に戻って考えたら、本末転倒になっているのが分かる。

 第二に、施工法について考える。在来工法が壊れたのは、柱と梁との接合部のつくりが合理化されていたからだ。関東大震災の時、木造はねばりがあって丈夫だと思い、その幻想をずっと持ち続けていたわけだが、当時の木造は昔のつくり方だから仕口がしっかりしていたためにねばったのであって、今の家は違うのだ。そういう木造のノウハウは、大工の頭領が引き継ぐものだったが、大工がいなくなり、かといって専門家もコミットしておらず、木造の専門家は日本で五人もいないくらいという現状になっている。

 また、戦争の時の空襲対策として、トタンやセメントを用いるのが非常に効果的であったことから、壁などにセメントを塗るようになったが、火事には強くても、中の木が腐っているかどうかが見えなくなってしまった、という大きな欠点をも同時にかかえてしまった。

 木造家屋の下敷きになって即死した人がこれだけいるという現実を見たら、日本には、アメリカのようなサーチ=アンド=レスキュー(捜索救助)よりも、土木建築技術者が自らの責任を感じて反省することこそ必要だと分かるはずだ。技術者が持つべきモラルは、医者のモラルと同じなのだ。

 第三に、手抜きや違法な建築について考える。木造三階建ては、アメリカのスーパー301条による外圧で認めたものだが、今建っている三階建ての半分は違反建築で、そのうちの半分は地震で壊れるだろう。違反建築とは、貧しい者の生きる知恵であって、具体的には一階にガレージをつくるには違反しなければならない、という現実にそれが象徴される。設計者が違反をそそのかすし、市民も平気である。チェックする側も、図面しか見ないで黙認してきた。こういう構造になってしまったのはなぜか。それを考えねばならない。設計料が安全のための金だということを理解しているのだろうか。鉄筋建築では、地震で壊れたことに対して裁判をおこしている例があるが、木造ではおきていない。このままで良いのだろうか。

 日本は公共工事の比率が非常に高い独自の構造がある。そして、公共工事は建設業にまわる。請け負うゼネコンは、設計と施工をセットで受注する。このシステムが悪の温床である。設計と施工が別なら、できあがった後に設計士がチェックできるが、一緒ではチェックがなおざりになる。

「どうすれば次の災害を防ぐことができるのか」
 「木造」や「密集」そのものが悪いのではない。例えば、飛騨高山は燃えないし、京都は戦火以外ではほとんど燃えたことがない。重要なのは、秩序だてることである。屋根並みがそろうといった秩序だった密集なら大丈夫なのだ。高い屋根や低い屋根があってでこぼこしていると、気流の通り方に影響し、熱の通り道をつくってしまう。今度の震災でも耐火構造の大きな建築物があると、その横をビル風が通って火がとまらないことを経験している。

 「不燃化率をあげろ」と言うばかりではだめなのだ。秩序がなければ。神戸は震災後、マンションがたくさん建ったから不燃化率は上がった。でもそんなことだけではだめだということは、今回の震災で分かったはずだ。建築家も都市計画家も法律ばかり基準にしていて、本来の目的を忘れている。まち全体を考える必要がある。また、都市計画は、決定だけしておいて、いつまでも道路ができないままで、徹底してやらないといういい加減さがあるのも問題だ。

 ここ長田でお話するにあたり、これは大議論になることなのだが、「長田はなぜ燃えたのか」についても触れておきたい。

 (1)たくさんの火事がおきた、(2)木造密集、(3)水が出なかった、(4)消防車が来るのが遅かった、……。これは原因を順位づけて並べたもの。最大の原因である(1)については、関電に言っていることがある。風呂の火事がなくなったのは空焚き防止装置がついたからで、コンロの火事がなくなったのも安全装置がついたから。それらと同様に、電気も自動的にブレーカーが落ちるような技術開発を関西電力がすれば良い。通電による火災はそれで防げるようになる。だが、関電はやろうとしない。

 二番目の理由である木造密集については、神戸市がニュータウン開発ばかりでインナーシティをほっておいたことが原因。

 三番目の水が出なかったことについては、日本の水道システムへの根本的な疑問がもちあがる。すなわち、飲料水と消防用水が一緒のシステムであって良いのか、という問題である。水道管を耐震化するのには、金と時間がかかる。神戸も七%が十八%になったに過ぎない。それよりも自然(海と川)を活かして、その循環を利用するような消防用水システムをつくれば、都市における「自然との共生」にもつながるし、良いのではないか。

 ボランティアについても言いたいことがある。防災にボランティアを使って本当に良いのか。防災ボランティアと普通のボランティアとの違いはどこにあるか。防災には、答えを出さねばならない、という違いがある。人の命、安全に関することにボランティアを使おうという発想は間違っている。

 今回の復興計画に対しても、言いたいことがある。都市は災害がおこるごとに安全なまちづくりを行ってきた歴史があるが、今回ほど防災なしの復興計画は珍しいということだ。これは強大な権力が出てこなかったということでもあるのだが、つくろうとするまちに防災スピリットがないのは驚くべきことだ。「安全なまちをつくろう」という大議論がない災害だったのだ。この度の震災で、「太陽光発電を全ての小学校に」と提言したが、できたのは本庄小学校と丸山中学校だけだ。生活再建を先にしたからだ、という言い訳もあるにはあるが。

 もちろん、現象面で言えば、市民も防災まちづくりの足を引っ張っている。道路はいらん、と言い張っている。奥尻では、巨大な防潮壁をつくった。命を守るために。それと引き換えに、海が見える美しい観光名所というものを失った。この例をどう捉えれば良いのだろうか。減歩少なく、少しでも自分の住まいは広く……。そんな、そろばん勘定のまちづくりが行われてしまった。

 協働やパートナーシップということを神戸市が盛んに言う今日この頃。今までは、市民が安全なまちづくりを欲しないからと、行政と専門家がパートナーシップを組んで、市民と対してきた。これからは、市民と専門家がパートナーシップをとって、行政に対していく必要がある。

「聴衆からの質疑応答の中で」
 震災教訓三大話し。(1)LSA、(2)コレクティブハウジング、グループハウス、(3)まちづくり協議会。これらを活かせるかどうかは、これからが勝負。

 コルビジェ流のまちづくりで、人と人とのつながりというダイヤモンドを流してしまった。

 四角い高層はもうできてしまった。ならば、それをどう使いこなすかが、今後の課題。

 ストックを大切にする文化を。

 「安全なまちの筋交いは?」という問いには、「道路と公園」という公式見解が都市計画では用意されている。しかし、「道路と公園」よりも「景観」の方が大事。道路はつくってもつくらなくてもいい。それは市民が決めること。どちらかが正解なのではなく、どちらを選択するにしても、選択後にどういうまちをつくっていくか、なのだ。道路をつくらないなら、それに応じた安全なまちづくりはいくらでも提案できる。制度に縛られていてはだめだ。また、神戸市は「コンパクトシティ」という概念を提示して身の丈にあったまちづくりを推進しようとしているが、コンパクトシティといった反省がない言い方はだめで、サステナブルコミュニティという言い方をしたい。ここには反省があるから。今取り組んでいるのは、防災パタンランゲージづくり。これを用いて、安全なまちづくりを市民と協働で行えると良い。

 <広原盛明先生「復興まちづくりと神戸都市計画〜これからのまちづくり〜」
阪神・淡路大震災とはどんな災害だったのか」
 「小さな事実ではなく、大きな真実を捉える」という姿勢で講義がはじまる。阪神・淡路大震災とは、ポストバブル時代に発生し、大都市のインナーシティを直撃し、成長主義的都市計画・都市経営の「先進」自治体である神戸市を襲った災害だと定義できる。

「日本型都市計画の基本的体質と特徴」
 「今度の震災復興は難しい。なぜなら神戸が全部焼け切らなかったからだ。まだらなのだ」。この発想は、災害を千載一遇の機会と捉える急進成長主義の都市計画から来ている。関東大震災第二次世界大戦時と何ら変わっていない。

 国家官僚を頂点とする中央集権的計画・決定も特徴的だ。都市計画はそもそも地方自治であるべきだが、1968年に定められて以来、都市計画法建設大臣に権限があることに変わりがない。

 執行体制としても、力的に道路局が100だとしたら、都市局は10、住宅局は1という比率に見られるように、インフラ・ハコモノ重視の体制であり、「ほっといたら混乱が生じる」ということで、地震から2ヶ月後の都市計画決定となった。

「神戸市震災復興計画の特徴」
 復興計画の基本的特徴は、兵庫県においては大阪湾ベイエリア開発、神戸市においては港湾計画と市街地再開発、という大ハコモノ計画にある。

 被災者の生活再建の基礎となる被災者調査・被災地建物調査を置き去りにし(都市計画決定する所だけは震災3日目に調査)、国家官僚を中心とする復興計画づくりに熱中したのだ。

 計画策定には、三重構造があった。最初の1ヶ月で、運輸省港湾局と神戸市港湾局、建設省都市局・道路局と神戸市都市計画局・建設局(国省庁と県市の関係部局縦割り連合)で主要部分を決定した。震災前からポーアイ・RIC・HAT埋め立てといった港湾計画はできていて(運輸省認可)、それをいかに早く決定するかが重要であったのだ。

 それを受ける形で、都市計画審議会が都市計画決定をし(2週間位で計画はでき、3月17日に発表。酒田は大火から3日で都市計画決定して燃えない街をつくったという……)、その決定を前提として県市の復興計画審議会が復興計画を策定した。(6月30日の神戸市復興計画に対しては、今は経企庁長官の堺屋太一がまっ先に批判し、福祉面では一番ヶ瀬康子が批判していた)

 その中から政府の阪神・淡路復興委員会(下河辺委員会)が「ナショナルプロジェクト」としてハコモノ事業を選別して権威づけたのが地震から1年くらいだ。下河辺は、一般に土木が出世して建築は出世しないと言われる中、建築出身で事務次官まで登り詰めた人であり、第一全総から第五全総までに関わった高度成長の立て役者である。そんな人が率いる委員会がどんなものだったのかがやっと最近、議事録の中身が明らかになって分かってきている(読売新聞連載)。

 具体的な計画の中身だが、新長田、東部、六甲という副都心再開発計画、神戸港拡張と埋め立て造成計画、神戸空港プロジェクトと陸海空の大プロジェクトのオンパレードとなった。新長田では、普通1.5haに30年かかると言われる再開発を、20haいっきにやろうとし(戦艦大和方式、あるいはタイタニック方式)、計画の若干の修整を余儀無くされている(アメリカ型の再開発=gentrificationでヤッピーを呼ぼうとしたが来なかった)。当初の計画と実際が異なった例は他に、西須磨は住民がうるさいからやめにした、真野の区画整理やめた(その代わりにその分の予算が森南に?)などが挙げられる。また、埋め立て地を経済特区とするエンタープライズゾーン計画は、大阪が脅威に感じてつぶしにかかり、関西圏に亀裂をおこしたまま御破算になった。

 計画の手法は、クリアランス・アンド・ビルド。クリアランス(清掃)の手法としては、がれき処理と埋め立て(今日の朝日1.15を見よ、下河辺)プラス郊外仮設住宅建設。都市計画決定によって空地を確保する。その後、行政がハコモノをつくり収容するというテクノクラート的発想である。関東大震災の時は、バラック建築を特例で認める勅令を出した(震災スラムができたが)のだから、今回も臨時立法すれば他のやり方も可能であったが、神戸では自力仮設を認めなかった。

 計画のシナリオは、公共土木事業への集中投資による波及効果で雇用や所得の回復を狙うものだった。

「復興計画その後」
 実際にはそのシナリオが見事に裏切れらた。時代状況読み違えのためである。時代はすでにゼロ成長時代に移行しており、高度成長は終わっているということ。そして大きいのは、人口減を軽く見てしまったことだ。

 再開発で増床分を貸せるとか、減歩しても地価が上がるとかいった右肩上がり成長を前提とした都市計画制度そのものが、説得力を失った。港に金をかけたのに、使われていない。開発型プロジェクトはことごとく挫折。これらは全て、状況の読み違いだ。

 東部新都心の再開発は、川重、川鉄、神戸製鋼といった会社がいずれしなければならない大規模なリストラを、多額の移転補償をもらうというなんともラッキーな条件で行えたに過ぎず、波及効果をのぞむべくもない(堺、浜寺といったかつて進駐軍がリゾートとして使ったくらいきれいな海浜を埋め立てた大阪臨海地区も今や空地で、再開発して売りたがっている。それと比べたら……)。

 局地的災害であれば、クリアランス・アンド・ビルドも効果的だが、今回の場合は、その手法が全て裏目に出て、人口(一番の復興指標)が戻ってこない社会的構造を拡大・強化してしまった。弱者選別による社会的コスト増大、地域格差増大、インナーシティ問題激化、市街地再生能力衰退、都市構造空洞化、都市アメニティ崩壊、財政危機など、挙げればきりがない。

「まちづくりのこれから」
 人が帰ってこないことの理由は深刻である。人が帰ってこられるまちづくりをする必要がある。右肩下がり社会の中で、ハコモノ型対応から地域社会維持へと対応を変え、小規模分散コミュニティ支援へ軸足を移すのだ。進め方も、住民パートナーシップの漸進的改善により行うべきだ。

その他
 従来、ハコモノ不足が都市問題だったが、今や公園をつくろうとすると、ホームレスや犯罪の場になるからと住民の反対が出る時代だ。土木にソフトがないのが問題。

 東京の人が神戸を見に来て、同じような仮設住宅は土地がないからつくれない、と言っている。自力仮設を認めるしかないのだ。これは、都市型災害の場合、仮設住宅という発想ではなく、仮設市街地をつくるという発想へ転換する必要があることを示唆している。例えば、鉄道駅の建て直しをする場合、列車を止めずに少しずつ建て直していく。これと同じように、住みながらまちづくりをしていくのである。今回の復興計画は、「列車を全部止めて工事した」かっこうになっている。避難所ではまちづくりを語り合ったが、仮設に行ったら途端に語らなくなった。それは、生活を維持し、住み続けながらのまちづくりをしなかったためである。

 知事は、二段階都市計画と言い、二段階目は住民がやれるとしているが、残ったのは枝葉だけ。一次が暫定なら良いが、一次で本質的決定をしていて、単に時間差だけを設けるのでは、二段階の意味がない。事業型まち協は、二段階目の協議会でしかない。神戸の経験から、もう上から役人がやるのは無理だと官僚側も気付いたし、前もってやれることもなくなってきている。黒地(都市計画事業決定された所)と白地で、公的な金がくるかこないかというすごい格差がつくのも明らかにおかしい。まちづくりベースキャンプがNPOとして設置され、コンサルが数年契約で入り、行政窓口にもボランティア拠点にもなる、という形が求められる。非常事態に区画整理というのはもう建設省も考えていないから、今度は人(コンサル等)に金をつけるようにするべきだ。

 コンパクトシティと言われるが、今ある都市を大切に、ということだ。1970年代、ヨーロッパでは都市計画が変わった。ロンドンでもニュータウン開発をやめ、中心部の再生を行った(イギリスの都市崩壊はすごかった。空地がどんどんでき、バンダリズム=公共物破壊がおきた)し、ドイツでは緑の党が出たこともあり、環境問題の観点から縮小しながらどう進歩するかが課題となった。これは、人口減の計画をどう立てるか、という問題。誰もが慣れていないことだ。しかし、厚生省人口問題研究所で、20年後の東京大阪は2割人口減と言っているのだから、通らずには済まされない問題である。イギリスではブレア政権が、Housing PolicyからHousing Plusへ移行させている。ハウジングプランは、実は非ハウジング分野、つまり失業問題などのソフト問題へと重点が移っているということを、よく示している。また、Housing AssociationといったNPOの活躍もそこにはある。

 今、神戸で問題なのは、神戸市の財政が厳しく、市民がやろう、という気になっている時に金がないことである。まち協も仮換地が終わってヘトヘトで、これからの5年を考えるという状況ではない。神戸市は介護保険調査も全部民間に投げたくらいで、どうしようもない。

 <遠藤勝裕先生「被災地の経済再生に向けて 『私のこの5年』の検証から」>
 震災当時、日銀神戸支店長だった遠藤氏は、(1)金融財政の当事者、(2)エコノミスト、(3)行動する一市民、という3つの立場から、自分自身の検証という限定つきで、震災後の1月31日発の会見記事からはじまる新聞記事や講演レジュメを盛り込んだ分厚い資料をもとに、講義を行った。なぜ、「私の検証」だと断るかというと、震災言説百人百様、それら全てが正しいからだ。資本主義の権化と自負する遠藤氏の講義は、ありがちな震災言説とは一線を画するため、非常に興味深い。なお、震災直後から約2ヶ月間の行動を事細かに記した著書『阪神大震災 日銀神戸支店長の行動日記』(日本信用調査)は、「版元で品切れ絶版、海文堂書店でも手に入らないだろうから図書館でどうぞ」との本人の弁であったが、17日海文堂に行くと、震災本ワゴンに平積みになっていた。さすがの海文堂でも手に入れられるのはこれで最後だろうから、欲しい人は今のうちに。震災3日後に思い立って直後からの行動を克明に記録しだし、過労で左目が見えなくなった3月4日まで続いた日記。日銀の危機管理マニュアルとなり、それだけでは惜しいからと出版されたこの本は、一見の価値がある。
 地震直後、日銀は現金供給と被災銀行の窓口という二つの役割をまず果たした。3日で1000億円が日銀から出た。いわば、人工呼吸としての金の循環である。当時マスコミ報道は「神戸は壊滅」と言い続けており、その情報だけが世界に発信されては困るので、地震後始めての定例月末会見で、「悲惨ではあるが、壊滅ではない」ことを強調した。

 マスコミを始めとする中央(東京)との温度差が決定的になったのは、3月20日のオウムによる地下鉄サリン事件であった(遠藤氏は当日東京で会議のため、当該地下鉄の2本後の電車に乗っていた)。中央主導による復興のいかがわしさに気付いたのもこの頃である。人の流れが途絶えた現状から、人と金の流れを取り戻すため、ハード・ハコモノではなく、構造改革で経済復興しなければならないと力説し、神戸復興支援!何かを支店会(神戸に来てもらって会議をするなど)の活動を自らも行った。

 7月には、被災地の金融機関限定の復興支援貸し出しを行う計画を発表した。震災でのハード・インフラ被害は10兆円で、5兆円は国が出して、民間が5兆円負担するとして、民間分の1割である5千億円は貸し出す予定でいた。当時、さくら銀行が復興用に600億の枠をつくったが実行できないと踏んでおり、戦災復興でも特別貸し出しをしていることから、踏み切った。本格復興に資金は欠かせないからだ。しかし、さくら銀行は、支店としてはこの資金を欲しがったのに、本店が断り、他の都銀も巻き込んで、都銀全てがこの貸し出しを受けないことになってしまい、地銀以下にしか貸し出せず、2715億円しか資金を供給できなかった。日銀の特別貸し出しは、公定歩合と同じ利率であったが、さくら銀は、コールレート(市場)での調達のが安いと言って断ったのだ。それだけならともかく、他の都銀まで巻き込むとは。おかげで、もくろみの半分しか供給できなかった。このことは、遠藤氏最大の痛恨の極みであったという。

 震災から1年目に、支店長会議で神戸からの報告をした。その文章は今読んでも、ほとんど付け加えるところがないほどのものである。復興状況は8割程度だが、復興程度には業種間格差、企業間格差、地域間格差があり、8割経済が逆に今後7割、6割と後戻りする可能性もある。高度にソフト化された経済中心の社会が被災すると、二次的被害が大きくなり、現状のハード中心の復旧では復興につながらない。神戸都市部の高齢化・空洞化は深刻で、生産人口の減少は、産業構造変革を迫るものである。復興関連要望は地域エゴではない。日本の重要なプロフィットセンターの回復につながるという視点でみるべきだ。以上の事柄は、5年たった今でも依然説得力を持っている。つまり、神戸は無視され続けているのである。これは大問題だ。

 震災の年の夏には、地元兵庫銀行の破綻とそれに伴うみどり銀行の設立があった。元太陽神戸三井銀行であったさくら銀は、もはや地元銀行としての役割を果たそうとはせず、みどり銀に出資をしなかった。そのため、遠藤氏は、ダイエーの中内オーナーに直談判し、5億出資を約束させた。復興のためには、兵庫に地元銀行が必要だ、という強い思いからだった。このみどり銀も阪神銀行に吸収され、みなと銀行になったが、さくら・住友合併を機会に、さくら銀の神戸分をみなと銀に譲渡して新神戸銀行でもつくったらいい、とさえ考えている。

 神戸市は神戸空港を建設しているが、今からでも空港をやめれば大拍手間違いなしだ。あと4、5年で神戸市は破綻する。そうなる前に財政状況をディスクローズして、復興推進のための援助を受けた方が良い。

(*遠藤氏の講義は、分厚い資料をもとに行われたので、それをもとにしないと、うまく再現できない。彼の書いたものを見かけたら、直接読むことをおすすめする)

 <ディスカッション>(出てきた順にランダムに)
 兵庫県の震災検証。外国の人は、「よくやった」という肯定的評価。NPOと行政の連携がうまくない。新長田はワンルームの学生マンションにすれば。
 行政は震災に学ぶどころか、内向きに固まってしまった。ボタンのかけ違えは、(1)下河辺委員会、(2)神戸空港

 田中康夫は、昨年6月19日、朝日に空港の意見広告を出した。反対運動ではなく反対の論理が必要。資本主義を守るために、経済発展のために、という論理。評論家はいらない。

 震災後のユートピア(頭と体が一体)→復興計画に期待→個々のプロジェクトの批判(新長田、空港)→(5年)→復興計画全体の枠組みへの批判
 復興計画は、内在的に崩壊(自壊)する。その責任は誰にあるか。これに答えずして次にはいけない。事実をもって検証を。

 都市計画決定には、地方議会参与できず。審議会は神戸市が選ぶ(会長は小川助役)。ただし、「一度決めたことは再決定しない」という前例は森南で崩された。計画変更が実現し、前例をつくれた。

 道路は、戦災復興でたくさんやったが、まだできてない。時のアセスメントで、10年でできなければやめるという姿勢が必要。たしかに道路はネットワークだから、簡単に途中ではあきらめられないが、10年、20年後に必要かと問えば、答えは違ってくる。すでに車の混雑はピークアウトし出す時期。CO2排出からみても、道路交通にこれ以上負荷はかけられない。

 空港はとっくに分岐点を過ぎている(ピークアウトしている)。東京湾横断道路(アクアライン)は、たった1年で建設省が「失敗」と表明する非常に素早い対応がなされた。そういう時代になっている。神戸空港は、起債を売却でまかなうとはいえ、全日空が伊丹のビルを売る時代。また、羽田の発着枠争いで、各地方(空港)から袋だたきにあい、全国を敵にまわすことになる。
*1月16日(日)
 <こうべ i(あい)ウォーク>
 あいウォークは、募金を持ち寄って一緒に歩くというアメリカで発達しているチャリティウォークの神戸版。一人一口1000円募金する。震災ボランティア関係の助成も少なくなってきたことから、市民自身が運営する「しみん基金・KOBE」が発足し、それに寄付の全額を寄付する形で行われ、今回が2回目。
 コースは長田は鷹取の大国公園から三宮の東遊園地までの約10km。JR鷹取駅で電車を下りると、リュックを背負った親子連れが何組もいる。楽しい身近な遠足だ。改札を出ると、野田北部まちづくり協議会の面々が駅前に立ち、スタート地点の大国公園への道案内をしている。大国公園までは、この地区のまちづくりの一つの成果である細街路整備の美しい特殊舗装がなされた道を通っていく(細街路整備の実際は、青池監督の映画「野田北部・鷹取の人びと」第12部を見よ)。前を通る二人がこの舗装について不満を述べる。「この舗装、最近神戸の他の地域でも見かけるけど、年寄りにはつまづいたり滑ったりして危ないんよねえ」。この指摘は、道路のまん中と周辺部の舗装形態が異なり、その中央部の凝った舗装が滑りやすいとの指摘である。たしかに、そのことは地元でも理解されており、使ううちにだんだん表面コーティングがはがれて滑りにくくなるという説明をし、中央部を外して歩いて欲しいという要望を出ているという。道路はみんなの道路。子どもにも魅力ある楽しい道路でありたい。そんな夢が込められ、地元民の意向を組み入れてつくった道路だから、使い方を工夫しながら、安全に楽しく歩きたい。

 大国公園に着くと、テントが張られ、受付と募金箱が用意されている。この公園は、震災後の火事を止め(今でも公園東側の木の表面は表皮がはがれたまま)、直後の避難場所にもなったところ。その後も各種イベントやまちづくりの拠点場所として大事な役目を果たしている。今日も、大勢が集まり、スタート地点を提供している。地元の方や学生ボランティアが受付を行っており、皆愛想が良い。1.17前後に白いリボンをつけよう、という「白いリボン運動」とも連動して、あいウォーク参加者の目印として全員に白いリボンがガイドブック(スタンプラリーシート)とともに渡される。(このガイドブックのできがまた素晴らしい)

 曲り角ごとに、ボランティアの学生がいて、「こんにちは」などと声をかけてくれる。前半部は、多くが神戸山手学園の女子中高生。道が明るい雰囲気になる。新長田のジョイプラザの手前で右に曲がり、大正筋商店街へ。横を歩く人が、「あれっ、まだ仮設(住宅)があるよ」と驚いたように言う。少し進むと、まだ焼けただれて崩れてひん曲がったままのアーケードが残る場所がある。ここでは皆、歩みが遅くなり、カメラを出す人もいる。

大正筋 再開発
(左)ひん曲がったアーケード、閑散とした商店街 (右)再開発のためフェンスで囲われたまま

 国道2号線をくぐる地下道に入ると、そこは、震災の年の生々しくも懐かしいような様々な写真がズラリと通路のショーウインドーに並んでいる。燃え盛るまち。炊き出しの笑顔。がれきのまち……。震災後のまちづくりに関するこれからの動きを展示したコーナーもある。通りがかりも人も皆足をとめ、様々な表情や反応を見せながら、展示に見入っている。地下道の終わりに、再開発でできたアスタくにづか(上は公営住宅で下は大正筋商店会のお店)があり、ウォーク参加者においしい瓦せんべいがふるまわれる。ベンチに腰掛けてしばし休憩。

 次に通る丸五市場。これには驚かされた。まったく迷路のような闇市かと思うような狭くて暗い市場。東京の人なら、秋葉原の怪しい電気パーツ売り場が並ぶあたりを想像していただけると、少しイメージできるかもしれない(ちょっと違うけど)。これが長田の下町市場なのか! 活気があって、その場でちょっと惣菜をつまんだりできる。安くてバラエティに富んだ品物が並ぶ。途中では暖かい飲み物のサービス(私が通った時は上島コーヒー)もあり、震災オリジナルビデオの販売もされていた。

真野 真野のまちが見えてきた

 新湊川を渡ると、真野地区の屋根並みが揃った家々が見えてくる。震災後できたコレクティブハウジング(地域福祉センターも入っている)では、お茶がふるまわれ、参加者はトイレも拝借かたがた中をのぞくことができた。女性用のトイレは大行列。ここで二つ目のスタンプをポン。

 真野からずっと北へ上がっていき、今日オープンの式典が行われている共同化住宅内の地域活動拠点、みくらコミュニティプラザへ。地元のわが街の会のおばちゃんたちが、ホットレモンとスタンプのご褒美をくれる。ここでも、5年前のこの場所が燃え盛る様が写った写真がずらっと展示されていて、すんなりと通り過ぎるわけにはいかないようになっている。ここにも「市民トイレ」(神戸では公衆便所のことをここ十年くらいこう呼んでいるらしい)がある。

長田 更地が残る長田を歩いていきます

 ここからすぐのところに、あのマスコミであまりにも有名になった菅原市場がある。閑散としているのは、日曜で閉まっていただけではなく、昨年末16店舗が転廃業したことによるもので、シャッターに貼ってある閉店のお知らせが悲し気である。残る5店舗もスーパー開設を計画中だとか。ちなみに、ここのお弁当を去年の夏食べたけど、とってもおいしかったよ。

キャナルタウン 復興住宅「キャナルタウン」

 JR沿いをずっと東に歩いていくと、突如としてテーマパークのようなすごいまちが出現。全体で2600戸の大規模な高層住宅街。キャナルタウンという。中を運河にみたてた川が流れており、ウッドデッキもあって、なんともすごい風景。子どもも楽し気に遊んでいる。途中、集会所でお茶が出される。お茶を出してくださった方にお話を伺ってみると、とても住み心地が良く便利で何も言うことはないとのこと。こうやって分かりやすい形でまちが変わっていくこと。それ自体は素晴らしいことだ。だが、人と人とのつながりをこれからつくっていかねばならないのは、他と同じなのだろう。

 お昼を過ぎたあたりから、雨が降り出してきた。なんとか傘をささないでも良いレベルではあるが。きらびやかな神戸アートビレッジセンター(若手芸術家活躍の場)の建物を通り過ぎ、新開地へ。ここのスタンプは、淀川長治さんのお顔をかたどったもの。雨が降る中、自然と早足になるが、ここは屋根付きの商店街。そしてここからは、えんえん1kmにも及ぶメトロ神戸地下街。まったく知らなかったが、古びた感じの古本屋街が連なり、卓球場なんかもある。どこか懐かしいタイムスリップしたような場である。

 この後、コースは、湊川神社を経由して、元町商店街三宮センター街を抜けてゴールへ向かうのだが、私は午後からの予定があるため、ここでタイムアウト。JR神戸駅から電車に乗り、講演会のある元町駅へと向かった。

 改めてここで感想を述べたい。実ははじめ、ただ歩くなんてつまらないと思っていた。しかし、歩いてみると全く知らなかったまちを発見でき、イベント中だということがプラスして、地元の人と気さくにおしゃべりもできる。そして、震災後の人びとの有形無形の努力のあとに驚かされ、それを自分の足で一歩一歩確認しながらいけることの素晴らしさ。これは何にもかえがたい震災後が残した素敵なイベントなんだ、と強く実感できた。これがきっかけになり、地震を知らない人びとにも「地震」が伝わるし、新しいまちづくりへの想像力も培われることになると思う。

 <金子郁容講演会>
 週末ボランティア主催の金子郁容講演会、「ヒューマンサービスとボランティア 震災5年、介護初年にあたって、ネットワーク社会を考える」。新幹線で朝東京を出た金子氏は、新神戸で待ち構えていた週ボラスタッフの案内で、車で被災地を回ったという。岩波新書から出した著書『ボランティア』がベストセラーになった金子氏の神戸での講演から飛び出てくるものは何なのか。
 会場を見回して一言。ボランティアは20代の若者と50〜60代の方と年齢的に二極分化しているんですよねえ、と。会場の聴衆もほぼそれに近い構成。

 まずは、東京を拠点としていた彼の震災後の活動から話しは始まる。身体障害者の支援をしていたため、被災地の障害者に連絡をとると、意外にも力強い返事がかえってくる。障害者は日常生活においても、この世の中で暮らすにはものすごいハンディを背負っている。電車があっても、それを利用するのは一苦労。「電車の便利さ」に頼った生活などしていない。それゆえ逆に、震災で電車が止まってもそれほど影響は受けないのである。いつもと困難さはたいして変わらないから。また、そうした困難を日常から抱えているがゆえに、普段から助け合いのネットワークの中にいる。だから、こういう時でのつながりは親密で強いのである。この逆説的事実は、改めて提示されると、はっとさせられる。

 次にコンピュータネットを用いた情報の問題である。当時、震災関連情報(物資や人材をはじめとする情報のマッチング)は、インターネットのニュースグループパソコン通信ニフティサーブPC-VANなどに拡散していた。そこで、それらのネットワークをつなぎ、一ケ所しか見ていない人でも他ののった情報を共有できるインターVネットというシステムを構築した。これにより、マッチングの確率が高まることになる。この活動をきっかけとして、インターVネットはVCOM(ブイコム)へと発展し、障害者の雇用のマッチングやNPO法案成立の過程への参与などネットコミュニティの様々な分野での有効活用に活動を広げている。民間だといかに素早い有効な対応がとれるかという実例である。

 以上、二つの話しを別の角度から言うと、コミュニティとNPOの話しとして整理できる。震災ボランティアで、ボランティア事務所に行くと、初対面でも皆互いにすごく話したがる。通常ではなかなかないことだ。これは活動という共通した枠の中に話したいことがたくさんあふれていることを示している。なぜ話したいことがあるのか。普通、人の役に立つ経験をするのは簡単なことではない。だが、ボランティアを通じて弱者と交流することで、弱者が「自分は役に立てるんだ」という実感を与えてくれる。また、危ないことやマイナスの情報はなかなか出てこないのが普通だが、ボランティアの現場からは常にそれが噴出する。そんな人びとの集まり(コミュニティ)の可能性に、着目せずにはいられない。

 介護の分野でもある種のコミュニティができてきている。介護保険のような大規模なセーフティネットは確立しても、そこには膨大なコストと破綻への不安、多様性に対応しきれないなどの問題がある。もっと小さな適正規模でもそれは可能ではないか。その一つの事例が、東京在住300世帯をメンバーとする在宅ケア支援ネットワーク、ライフケアシステムの事例だ。会員が24時間いつでもポケットベルで主治医を呼び出すことができ、会費は年1回の総会で決めた年会費だけで良い。自主的で顔の見える関係で続いているこのシステムは、在宅ケアにおけるコミュニティの可能性のモデルケースである。

 次に、インターVネットにはじまるNPO活動。この成功例を、東京町田の「ケアセンター成瀬」のOHPによる紹介で、示していく。このセンターは、1000人を超える地域住民を母体として自主的に設立されたグループによって運営されている。だから、皆が「ここは自分のセンターだ」という誇りを持ってセンターに関わっている。そういうボランタリーグループができあがるには、長い年月を必要としている。この地区は、1970年代に山林だった所が区画整理によって新興住宅地になった新しいまちである。地区の中でまず自治体が形成され、自治会もできる。学校のPTAをはじめとし、様々な地域団体が立ち上がり、地域問題がその中で紛糾していた。そんな中、ラブホテル建設計画をきっかけに、各団体が「町田市ラブホテル建設規制条例制定運動」という形でネットワークを形成するようになり(1980年代)、そこから地区の自治会連合会の中央集会所建設ネットワークができるといったように運動の広がりや拡大がなされる中、ケアセンターを設立しようというプロジェクトが提案され、建設のための署名運動からはじまって設計や運営を含め、住民の会が全過程に関わって、ケアセンターという形に成就したのだ。これは、全てボランタリーなNPO活動だが、それがこれほどの大きな成果を生み出す。実績を一つ一つ積み重ねること、その大事さがよく伝わる事例である。

 さらに今度は、NPOが社会的信用を創造する事例を紹介する。有機農産物というのは、国内ではその基準が曖昧で、いいかげんなものだった。そんな中、アクシスという岩手のアトピーに苦しむ子どもの親が集まった小さな団体が、県議会議員、県経済連、県の官僚らと協働することにより、NPOによる独自の有機農産物認証制度を構築したのである。こうしてできた認証協議会には、農協、生協、自治体、食品業者や組合、流通業者、学者などが関わり、そこから出てきたノウハウや技術を、アクシスがインターネットで集めた有機認証に関する海外の情報と整合するか確かめ、認証の信用を構築していった。欧米では、有機農産物の認証制度には長い歴史があるが、その中からグローバルスタンダードを形成しようという流れがあり、それを各NPOの情報を共有して集約することで達成させた。IFOAMという世界的なNGOの基準にも、アクシスがそこのメンバーの一員であることから、アクシス自身が情報を提供し、基準づくりに影響を与えた。このように世界基準としての信用をNPOが創造する時代に入っているのである。人間の安全や健康や心のケアについての社会的信用は、NGONPOが形成していくのだ。驚くべきことに、この岩手の小さな組織は、スタッフ4名、うち有給スタッフ2名という身軽な組織だ。それが力を持ち得る実例を知って欲しい。

 刺激的な先端事例の紹介の後、会場からの質問なども交え、話しがすすんだ。実際に日本では、NPO法ができるなど、NPOが注目を集めるようになっているが、法人格をとってもたいしてメリットがないと嘆く人も多い。これはなぜなのか。欧米、特にイギリスでは寄付が非常に多い。遺産を寄付するケースもある。日本では、税制の問題があって、そこまでいかない。税制改正相続税の改正などで、寄付を促進させていく必要がある。

 現代は、一方ではグローバル化がすすんでいるが、いくらグローバルスタンダードが求められるとはいえ、「信用」というのはあくまでも小さな単位からしかうまれない。日本でも、中世には仏教の「講」にみられるような小さなコミュニティとそのネットワークがあった。今の時代、またそういうものが重要になってきていることを重ねて強調しておきたい。

*1月17日(月)
 <1.17前夜>
 16日深夜、阪急三ノ宮前で、週末ボランティアのメンバー一人と座り込んでしゃべる。1.17(いってんいちなな)をどう過ごすのか。バスがほとんど来ない郊外の仮設への訪問をしていた彼は、その怨念を閉店後の店のシャッターを殴ることでぶちまける。「おれは、仮設の住人のために、バスが来るように働きかけた。お前は何をどうするんだ」。こちらは被災者ではない。だが、非被災者にこの空気を伝える言葉を紡ぎ出させばならぬ。それは私の能力では到底及ばないことだ。しかし、続けていくしかない。自分は地元横浜でできることをせなばならぬ。古い木造の自宅の耐震診断、そして、まちを日々歩いて気付いたことをいちいち「市長への手紙」で報告すること……。そんな足元から一歩一歩すすめること。それだけだって簡単じゃない。でも、それだけではない。やることはいくらでもある。その事実をつきつけれらると、身につまされる。
 同時にこれだけは言っておく。95年1月17日に地震があり、行政は2月の時点ですでに「被災者の生活再建」などという視点はなかったんだ、ということを。それが神戸市民が育ててきた市の運営方針であり、そのことは神戸空港建設に象徴される。そういう行政に対して、ただ怒りをぶちまけ続け、破壊衝動にはしるだけで本当にいいのか。そんなことで何が変わるんだ。

 この時期にしては暖かいが、12時をまわって道路は冷え込んでいる。明日に備え、新神戸方面に歩き、激震地にもかかわらず震災後もかわらず多量の温泉を沸き出している神戸クアハウスのカプセルホテルへ。テレビをつけると、夜通し震災特番。3時頃までNHK関西テレビを見、一旦休み、5時に起きる。

 <1.17神戸の灯り>
 昨日、こうべ i(あい)ウォークに参加する際もらった「白いリボン」を上着につけ、三ノ宮浜側、「1.17希望の灯り点灯式」会場である東遊園地へと、神戸市役所前を通って歩いていく。フェニックスプラザ前のテントでは、昨日から泊まり込みで「公的援助法支援ネットワーク」が慰霊のろうそくをつけて、この時を迎えようとしていた。市役所前には、何人かのホームレスがダンボールの中で寝ている。東遊園地に近づくにつれ、静かな人の流れができてくる。タクシーが前で止まり、人を降ろして、静かに去る。

公的支援  1.17神戸の灯り
(左)公的支援テント (中)雪地蔵とマスコミ (右)竹づつの灯り

 上から見ると1.17KOBEとなるように配置されたろうそく入りの竹づつ周りをテントとテレビ局の中継車が囲む公園に入ると、人びとが静かにその時を待っていた。若いボランティアは、消えてしまったろうそくがないか、チェックしながら巡回している。火がついているのは、1.17の部分だけである。手前には、富山県から贈られた小さな雪地蔵がたくさん並んでおり、その前でテレビのリポーターがしゃべっている(ここのろうそくを灯りの火種にしたという)。隣では、年老いた少し哀し気な雰囲気を漂わせている女性に、リポーターがインタビューしている。

 「午前5時45分20秒をお知らせ致します」NTTの時報がスピーカーから流される。「午前5時45分50秒をお知らせ致します」スピーカーの音量があがる。「午前5時5時46分ちょうどをお知らせ致します」、「黙とう」、「ポッポッポッピー」。静寂が一瞬訪れ、そしてカメラのシャッター音がここかしこに響く。5年前より5度暖かかったというその時。鎮魂の火と人びとの祈りで、その場は支配されていた。黙とうが終わり、アナウンスが流れる。

1995年1月17日午前5時46分
阪神淡路大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出

…たった1秒先が予知出来ない人間の限界…

震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ

 奪ったもの、そして残してくれたもの。それらが列挙される時、あたりから自然と涙が流れている。言葉が実質を持つ場であったのだ。

 「それではこれから1.17希望の灯り点灯式を行いますので、ご移動ください」とアナウンス。周りの人たちは「どこに移動するんだ??」と言いつつ、そのまま動かない。数分たち、奥で人が動いているのを見つけ、皆そちらへ動き出す。

 中央にガス灯があり、そこから2メートルくらい間隔があいて、人が集まっている。周りの高台で背伸びをして多くの人が見ている。「点灯です」。点灯する人とテレビカメラがガス灯のそばにいる。火がともった途端、ガス灯の前の女性が泣き崩れた。カメラマンが表情に近づく。ややしばらく周りの人はそのまま動かない。「どうぞ皆さん、遠慮なさらずに火にお近づきください」。アナウンスが繰り返され、やっと人の動きが見られるようになる。後で聞いた話しによれば、この点灯式、全国、そして被災十市十町から集めれた火を点灯したものだったという。今後、永遠にともり続ける。

 さっき上がったちょっとした高台。実は、その下に昨日除幕されたばかりの「慰霊と復興のモニュメント」がある。神戸市が寄付を集め、安藤忠雄ら4人の作品の中から選ばれた楠田信吾氏の作品をつくった。神戸市の震災犠牲者の名前が地下にずらりと並んでいる。皆、それをじっと見つめる。遺族なのか、字をさすっている人もいる。瞑想空間とされいるその空間。上はガラスになっており、地上から見下ろすこともできる。そこには水が流れている。なかなかよくできた作品である。これなら、つくった意味もあるだろう。

 さて、思い出したことをここで述べておきたい。上空の報道ヘリコプターのことである。5時46分の瞬間はさすがに大丈夫だったが、時に何台もが騒音をまき散らして回遊する光景には、「震災の時のおぞましいヘリの騒音」と何も変わっていないじゃないか、と思わざるをえなかった。たしかに、上空から撮ると「絵」になる灯り行事だが、ここは緊急時のヘリ報道の仕組みを模索するうえでも、灯りの行事主催者であるNGOが、マスコミ側に共同取材によるヘリ利用などを強く訴え、ヘリ報道の新たなルールづくりの創造へと向かわせて欲しかった。

 三宮に戻り、喫茶店で朝食をとる。客が新聞を見ながら「震災のことしかでてへんわ〜」と言う。「でも、これが最後やろね」マスターが落ち着いた調子で、しかしどこかに重みを感じる声で答え、それをきっかけに客やマスターとの間で、会話が始まる。この地の企業の経済がすでにボロボロであることに至るまで、話しはとめどもなく続く。

 <1.17神戸を歩く>
・神戸市役所で震災犠牲者追悼記帳

・同じく市役所で行政資料収集

・市役所前で兵庫県被災者連絡会がテントを出しており、要望書を県と市に出すという。その資料をもらう。

三宮センター街元町商店街経由、神戸駅まで歩く。
 フェニックスプラザでは、震災直後からの様子を多くの市民が撮ったホームビデオ映像をもとに、様々なケースごとに整理したアーカイブがパソコンで見られるようになっている。監督は大森一樹。この場限りのもので終わらせて欲しくない内容だ。
 センター街で、追悼の花をたむける式典開催中。元町の海文堂書店は、表に震災本特集ワゴンを出しており、人が群がっている。まちづくり会館で、被災直後と現在の航空写真の比較、再開発や区画整理や共同、協調建て替えなどの事例紹介や模型などの展示。震災写真展も。
 神戸クリスタルタワー兵庫県庁舎などを見て、神戸駅に到着。神戸駅地下街では、神戸新聞による震災直後の写真展。老若男女、皆群がり、自分が写ってないかも含め、長く足をとめる。

長田の灯り 長田の灯り準備風景

・神戸長田の灯り。新長田駅前で夕方5時46分。ろうそくの火がつきにくく、すぐ消えることへの対策。火のついたろうそくを手に持って、竹づつの中のろうそくに火をつけようとするのだが、ろうそくから溶けたろうが流れ落ちて、竹づつの中のろうそくの芯が埋まってしまい、ほじくり出さねばつかない、という状況があちこちで発生。高校生の参加やFMわいわいの収録などで明るさが増す。
*1月18日(火)
 <新しい市民社会を見すえて(神戸新聞主催シンポ)>
 これは19日の神戸新聞の特集で詳しく報告されているので、ここでは紹介しない。なかなか味わい深いものだった。ポイントは、「復興は終わっていない。これからの後期復興過程では、残された者への対応が行われる必要がある。高齢者と言い過ぎて、子どもの視点が抜けているのは、人口減の面から言っても大問題」といったところ。
 <市民とNGOの「防災」国際フォーラム>
 震災ボランティアの象徴的存在であった草地賢一氏がはじめたフォーラム。フォーラム開催直前の草地氏急死(海外救援中に感染した病気による殉死の可能性があり、それに対して何の補償もないという問題も提起された)で、やや物足りなさもあったが、地道で真面目な検証がなされつつあるのは実感された。

********作業中**********************

「小さな声のカノン」という映画をみて雑感

 横浜にちょっと用事があったので、ついでに、黄金町プロジェクトその後の「ジャック&ベティ」に行って、映画。映画だけだったら行かないのだが、高遠菜穂子さんのトークがあるというので、彼女については全く予備知識ないのだが、どんな感じの人なのか見に行こうというのが主目的。
 黄金町のちょんの間あたりの店も、地道にずっと続いていて、あの頃から変化はない。映画館も結構工夫して、客もたくさん来てて、支配人のトークも毎月1日の映画の日にやってるという。近隣映画や渋谷の映画館の情報なども見られるようにして、連帯も感じられる。地域文化って大それたものでもないけど、地域文化の持続可能性が証明されている一例、あるいはスプーン1杯かもしれないけど、成功例の一つではあろう。
 こないだNHKである地方でゲストハウスを運営している若者の例が出ていた。空いているスペースを活用してというような話しだったと思う。20代前半の何人かの若者たち。つくるまではとても楽しかったが、いざはじめてみると、毎日ルーティーンワークばかり、掃除やベッドメイクばかりして、これだったら自分じゃなくてもできる(誰でもできる)、別のことをしなければ、ときわめてユダヤ的な進歩史観の中にいる。そして、商店街に何か助成金とれそうなプレゼン資料持ってって、プレゼンする。
 考えてみれば当たり前で、空家だらけが当たり前で、雇用労働がつまらないのが前提となっている時代における若者が、その状況に適応して動いているだけであって、別に奇特な若者の例ではないから。自己実現とか承認欲求とか、ありがちな事象は「社会的事業」であれ、お金と関係なく楽しむ(彼ら共同経営者は月給10万円だそうだ)のであれ、いわゆるレールにのっている(かのようにみえる)人たちと同じか、それ以上に強いわけで、「ここ」ではない「どこか」にユートピアとまでは言わないまでも何かを探している。まあ、自分探しの旅なのか。
 阪神大震災のボランティアをしている時、それが私の原点なのだが、その時、これをずっと一生の仕事(活動)にする、という選択肢があった。事実、それをして、20年たった今、活動し続けている人もいる。だいたい研究者やNPOとして。研究者やNPOのよさも悪さも身近にいたし、実際その場にいたこともあるからよく分かるのだが、それをずっと続けることはしたくないなというのが私の選択だった。行政の助成金とか文科省科研費とか学会の論文発表とか、そうしたものに束縛されることをずっとやってきて、もういいよ、「自由」な立場にいたいよ、と思ったから。
 黄金町でつぶれた映画館を継承して、違法な風俗営業を続ける業界と警察の権力闘争によるまちこわしの経過から発生した破壊にともなう創造、そしてそれを継続する、つまらないような切符のもぎりを続けるようなことを続けることで、「地域文化」は継承される。それぞれがそれぞれのアクターとしてあり続ければよい、それがちっぽけであれ、社会における実現であり、それこそある種の理想形態ではないか。そんなことを、映画館に早めに着いたので、支配人と雑談しつつ、考えた。
 映画は、鎌仲監督の「小さな声のカノン」というタイトルのもので、原発事故による放射能から子どもを避難させるかとどまるか、あるいは保養に行かせる、そういうテーマの映画。前の仕事で、この関係の議員立法をつくってきた過程もあるし、阪神大震災以来のライフワークともかかわるし、といろいろあるけれども、鎌仲監督の映画はいくつかみてるが、かなり映画作品としては下手くそだと感じているし、今回のテーマについても、取り上げ方について予想がつくことがあって、積極的にみたいとは思ってはいなかった(もちろん私がいる田舎ではやってない映画だしTSUTAYAで借りられるわけでもない)。
 映画が終わった後、監督と高遠さんのトーク。高遠さんというのは、イラクの人間の盾でフィーチャーされた以前から、ずっとボランティアをしてて、今にいたるまでボランティア活動家(?)なのである。Wikipediaによれば、北海道の実家がカラオケ屋でそれ手伝ってるとか、そういうベースがあるということもあるのかもしれないけど、ボランティア活動家をずっとやっている。NPOでも行政の助成金でも研究家でもなくやっている。メディアや大衆からは罵声を浴びるという経験を幾多してきてはいるが、「自由」な立場である。その彼女がこの映画の後のトークで何をしゃべるのかな、という興味がちょっとあった。
 彼女は、メディアから罵声を浴びて、「自己責任」なり何なりいろいろ言われてきて、その方面についてはベテラン。「福島」に関わる人たちも、その方面については、いいかげんにして欲しいほど辟易としている。映画でメインに取り上げられる人の一人は、高遠さんが「被災地」で活動している中で知り合った人で、鎌仲さんて大丈夫な人?、と聞かれて、大丈夫とこたえたので実現した登場者。監督は、よかったー、だめと言われたらどうしよう、とのこたえ。それくらい自覚しているから、最悪の事態は避けられてるわけだな。映画の中で、放射能が高いエリアに住む母子が保養に来ていて、移住なり避難をするのは難しいと言っている母親を、主催者が強い調子で「子どもへの責任」に焦点をあてて問いかけるシーンがあり、移住を決めるとのテロップが流れた。これには、強い違和感があり、このテーマの映画を避けてきたり理由の大きな要素なのである。しかし、高遠さんは、移住しろとは言わなくなったという。移住したいという人がいれば、北海道で不動産屋一緒にまわることはするけど、と。その理由を母子避難なり移住で離婚がものすごく増えたから、と言っていたけど、離婚は象徴的で見えやすいからそれが出てくるだけで、離婚という言葉からこぼれ落ちる多々な現象がそこにはあるのではないかと思う。
 どんな立場、あるいは切り口から言っても、誰かは傷つく。それが高遠さんが今までの経験から、この映画のテーマについても言えることとして言ったこと。だから何も言わないということではないけど、軽々に語ることはできないし、「あつくてさわれない」状態が数十年と続くのである。チェルノブイリの子どもたちの保養を日本でやっている団体が少なくとも5つはあって、あの事故以来ずっとやっているということで、それを考えれば、何年という区切りが意味をなさないことを物語るだろう。
 映画で、被災地にとどまることを決断したお寺が出てくる。自身も子どもがおり、幼稚園を経営している。子どもたちを殺すのか、と罵声を浴びながら、寺のネットワークで全国から安全な野菜など食材を送ってもらい、無料で分け与えているし、高性能がテスターを導入し、食品の放射能検査をし、徹底した除染もしている。そして保養に行く。このお寺が避難しなかったのは、一番小さい子が父親といたい、と言ったからということだが、選択というのは、一人一人の判断、決定にゆだねられているわけで、一人の「狂気」的な勢いで選択を迫られるべきではない。そういう事例が出ていた点では、さすがに、くだんの議員立法制定過程でもずっと言い続けてきた、移住・避難する人もとどまる人も、どちらの意思決定においても、同様の人としての権利が保障されることを担保するという観点において、安心できた点ではある。
 映画の最後に、チェルノブイリの女性が、行動せよ、と言うインタビューがあるんだが、いったいその意図は何なのか。
 鎌仲監督は、映画に入れ切れなかったたくさんの映像を会員に送っているという。なるほどなと思う。もったいなくて、全てをみせたくなる。それはそうだ。一人一人に別のストーリーがあるのだから。でも、それをすることで、一映画の作品としての責任から逃れることになりやしないか。それがこの監督の映画の天然な正義感でこのまま来たことへの違和感につながるのかもしれない、などと思い至った。
 ひるがえって、自身のことだが、この「自由」な立場で「今ここ」でいいという感じで、ボランティア活動家として人生をおくっていければ満足。そのベースとなるものをつくていくのが、人生後半へのターンを切った今日この頃なんだなと再認識した次第。

MacBook Late2009にBoot CampでWindows7 Professional 64bit(DSP)を

 WIndowsXPのサポート切れから自前のWindows環境はなく、さほどの不便はないのでそのままにしていたが、一定の必要性を認識し、今さらながら、初めてMacWindowsを入れてWindows環境をつくることに。今まではすでにWindowsがインストールされてるノートしか使ってこなかったからね。
 ネットで事前にちょろっと見て、Windows7DSP版を買おうとするが、どうも怪しいものもいっぱいあふれてるようなんで、Googleで1位にも来るし、定評もあるドスパラの通販で買うと翌日宅急便で到着。
 さて、これまたネットでいろいろ見て、アプリケーションのユーティリティの中にあるBoot Campアシスタンスを起動。USBの8GBが必要とあるが、ないので、昔買った外付けHDDをUSBでつなぐ。そうすると、Windowsサポート用のソフトが外付けHDDに入るはずが、最初のつまづき。なんか、まっさらじゃないと入らないのか。外付けのデータをMacにコピーし、ディスクユーティリティでFATで消去(フォーマット)。これで、外付けにデータがダウンロードされていく。
 次に、Boot CampパーティションMacにつくるので、アシスタンスの指示通り。ここでまたエラー。どうもMacのHDDが壊れているよう。ディスクユーティリティーで検証し修復するが、途中で修復できないといわれてしまう。そこで、MacBook買ってきた時のOSXインストーラーDVDを引っ張り出し、DVDから起動し、ディスクユーティリティーで修復すると修復できた。
 さて、これでアシスタンスの言う通り、パーティションを分けるが、進行バーが3分の1くらいまではすぐいったが、それからうんともすんとも進まない。アシスタンス終了しようとしても、パーティション作成中だからと終了させない。1時間くらいして一瞬少しバーが動いた感じに。この日は疲れたので寝て、翌日パソコンの前に行ってみたならば、進行中のバーは最後までいってた。
 が、その先が進まない。とりあえずアシスタンスは終了できたので、終了して、再起動してみる。そうすると、Macのデスクトップにパーティション切れてたもう1つのHDDが登場してる。アシスタンスを立ち上げ、Win7のDVDを入れる。インストールを押して、Windowsのファイルを読み込みというのが出てきて、インストールがされていく。その後、再起動するんだがMacが立ち上がる。うーん、何度か再起動してWinのインストールが完了するはずなのに。ということで、Win7のDVDから起動すると、順次次のプロセスにすすむ。そしてやっとプロダクトキーを入れるとこまでいった。
 そして、外付けからBoot Campのセットアップをダブルクリック。これでやっと完成。
 Windows7の基本スコア4.3と上々(メモリは4GB)。そしてWindows Security Essentialをマイクロソフトからダウンロードインストール。Microsoft Updateを適用して、Windows Update。183の重要なアップデートがあってなんとか進行中。
 Macの英字キーボードとWindowsのキーの割当とか、ショートカットとか、まあちょっとしたところは、まだちゃんと整備してないが、予想以上に大変だったWindows導入は成功。しかし、標準機能でここまで面倒な目にあわせるのはいかがなのものか。ネット上には私がつまづいた点含め、数多な困難な道の報告があり、それでも私のは古いからUSBも2つあるし、DVDも入れられるし、isoにしてとかいうステップがない分、楽だったのかもしれない。

被災地岩手県入り

今朝から、自家用車で青森から岩手県の海沿い国道45号線を南下し、陸前高田まで行き、その先は宮城県気仙沼ですが、寸断されてるので、内陸に入り、一関は電気がとまってるので、水沢に来て駅前のホテルに泊まってます。ガソリンは久慈市までたっぷりあり、食料などもあり、普通に暮らせます。津波想定地区の看板や昭和8年三陸津波の看板が大量にある、そうした地区に皆さん住まれている。

低地はやられてて高台は大丈夫。地震の揺れで大きく被害を受けている感はほとんどない。津波がひたすら。

陸前高田が岩手では面的広域被害でどうすればいいのかわからない状況。

津波被災は、低地がやられて高いところは大丈夫であったりもするし、国道はガラガラで、救援はいくらでもできる環境にあり、遠方からのボランティア拒否といった国家や社協の言い分は、現地のボランティアコーディネーターがいないということか、あるいは自衛隊の尊厳を高めようという意図かとも思わせるくらい。

3週間たち、家のぬれたものや家具を出して掃除して、というのをそれなりにすすめたり、探し物をしたりみんな来ている。それをお手伝いはいくらでもできるのではないか。私は兵庫県の水害で出石で1階全部浸水したとこの泥掃除をしたことがあるだけだが(水害関連では)、人海戦術でやればかなり作業はすすむ。そうでないと、ただたたずむしかできない、そういう状況だ。もちろん、遺体安置や遺体捜索という状況や、ボランティアができない完全な津波のあとの被災状況はあるにしても、できることはたくさんある。

国会にいて、政府各党会議を何度か聞いたし、すべて毎日の報告は入れてるが、ほとんど役立たず。

国会内で関西学院大学災害復興研究所という阪神大震災16年がうんだ最強チームの勉強会を企画したのが私のひとつめの自分のいるところでできる最大限のことで、私の原点の震災ボランティア、しかしながら遠方からは禁止ということで、全体像把握のため、自家用車で週末まわってみている。

明日は、宮城、唯一広域火災があった気仙沼から行ければ行き、そこから南下して、福島原発近く、南相馬で物資落として、東京に戻る予定。取り急ぎ、岩手県水沢駅前のホテルより。隣の一関のホテルは電気なく宿泊受け入れず。

同じホテルには取材救援が多く、野口健が世界中から寝袋集めてきたのが来てるという。


誰もがボランティアできるわけではない。できない人は週末や休みで観光に来て金落とせばいい。青森はガラガラだ。空港もある。震災倒産を少しでも防ぐためにできることはそういうことでないかとも思った。