あんたは優生思想だ

障害者自身がしゃべるということ自体、この場にいる人たちにとって驚きがあるだろう。ここに歴然と、「差別」がある。
こういう出だしではじまった。これは震災市民検証の研究会での一こま。西宮で十数年障害者の自立生活センターを自分たちでつくってきた障害者が発言者だ。ボランティアではなく、金銭を介在させ、人を雇い、介護サービス事業を自らする。そこに重大な信念が込められている。
障害者支援というのは、もともと傷痍軍人救済からはじまっており、お国のために戦ってきた人への政策であり、そのついでに障害者支援が行われてきたに過ぎないというはじまりの歴史がある。
そして、その政策は、健常者が「こうあるべき」と推測してつくりあげた体制であり、障害者自身の声は聞かずにやってきた。その体制とは、施設への「収容」と「隔離」である。それに対し、自立センターをやってきたのは、地域の生活拠点が欲しいという障害者自身のニーズから発生したものである。
リハビリテーションという外国から入ってきた言葉がある。これはもともと素晴らしい概念であるはずだが、「機能回復訓練」(健常者に合わせることが目的)という訳語になると、全く違ってくる。「全人間的復権」であるべきなのだ。
「障害はなおらない」 「がんばれ」と言う人は、「でも、いくらがんばってもできない」という事実からは目をそらす。自身、子どもの頃から親に言われ続けてきた。それは徹底した比較である。人一倍苦労しないと他の子と同じようにできないから、がんばれ、と言うわけだが、こんなことを言われ続けていれば、自分が嫌になるしかないではないか。
授産施設でこういう声を聞く。「作業所で働いている人は、ここままその事業が軌道にのれば、一般就労や自立への道が開けるかもしれないね」 これは、働けない人はどうなるんだ、との視点が一切ない。寝て起きて食事して、という生活こそ、まっさきに優先されるべきことなのに、生活よりも就労が優先されている。生産性の優先だ。これは本当につらい。どんな人間も尊厳をもって生きる権利があり、地域社会はそれが可能になるようにする義務がある。「人間の生活」、「生活の姿」、そういう基本的なことを妥協していはいけない。
震災で人がやさしくなったとよく言われる。これはウソっぱちだ。家が全壊し、パジャマ一つで避難所の体育館に行った。避難所には家がつぶれてない人も当然来ている。そういう人は、家からふとんとかポットとかいろいろ持ち込んできて、自分たちの世界をつくる。ラーメンをつくっていて、においが一面にただよう。一方、自分はパジャマだけだ。夜、救援物資としておにぎりが来た。まず子どもから、あとは早い者勝ち。これでとれるわけがない。
もちろん、そんな状況も、だんだんとはよくなってくる。そこに一つの小さな社会ができるからだ。でもそれは一過性。避難所が仮設に変われば、また同じことの繰り返し。災害がおきるたびに同じ話がされる。堂々巡りだ。何かがあった時の対応ということでしかなく、恒久的対応ではない。
「地域で誰でも生活できるんや」という発想からはじまり、それをどう実現していくか。それには、福祉の枠にとらわれていてはだめ。例えば、福祉より教育の方がずっと重要だ。「障害はなおらなくてもいい」ということを全然教えていない。
障害というのは、身体でも心身でもない。生活しづらさが障害だ。