支援費の導入

今年の4月から障害者の介護には、支援費という制度が用いられている。誤解をおそれずにごく簡単に言うと、介護保険の障害者版と、とりあえず考えてくれれば、当たらずとも遠からずという側面もある。ポイントは「措置から契約へ」だ。障害者に対して、何らかの「措置」をしようという観点ではなく、障害者自身がサービス(介護など)を選び、契約するのである。
そのサービスを最大限利用してもまだまだ足りないとはいえ、制度自体も3割くらいしか利用されていない。それはヘルパー不足。障害者介護は高齢者介護と違い、若い人が必要。若い人はお金がない。生活しないといけない。だから、なかなかヘルパーにはなってくれない。
ヘルパーも大変だ。契約であり、お客様は神様だから、障害者に嫌われたら、仕事がなくなる。そこに安定性はない。
以前は障害者介護はボランティアが多かった。そういう人は、思いが強いし、質もいいが、ヘルパーは仕事だから、マネージメントが難しい。質が安定しないし、仕事という割り切りと行為自体のやりがいなど、うまく消化できない部分がある。そのあたりは、どうすればいいのか、現場も全く解決できていない問題。
仕事自体は契約だから、ああだこうだ言う余地はない。だが、ヘルパーの人間性が非常に出る場面もある。外出支援をする際、市場で値段交渉できるようにするのを最終目標としよう。最初は、市場に入ることさえままならないところからのスタートだ(市場側の拒否も含む)。そして、市場に入った。そこで、最初の一言を障害者自身が発するまで30分待ってみるか、最初からどんどん介入して強引にしゃべらせるか、しゃべらなかったらすぐにあきらめるか。その選択の際、ヘルパーの人生観、生き方そのものがすごくわらわれる。それは、ヘルパーの「市民としての感性」と言い換えてもよい。
小泉首相を選ぶのが今の市民だし、いきなり障害者が、「お前は優生思想だ」と言ったら、ただ拒否してコミュニケーションが成立しないというのが市民の大多数だ。
たしかに震災の時は、今まで全く障害者と会ったこともなかったような人たちが大量に来て、直接障害者に出会って関わった。それで関わり方は変わる。もちろん差別も優生思想もなくならないが、変わるのは事実。それはすごいことではある。そこからはじめるしかない。そして、市民の感性を少しずつ変えていくのだ。